九七式中戦車 チハ

太平洋戦争や大日本帝国陸軍が絡む歴史を調べていると、目にするのが九七式中戦車 チハ関係の記述。考えてみれば、サブカルチャー方面でも取り上げられていたような気がするし、いったいどういう戦車なのか。静岡県富士宮市にある若獅子神社にて、サイパンからの帰還戦車として安置されていることを知り、近所ということもあってさっそく出かけてきた。

若獅子神社

若獅子神社に到着。1984年(昭和59年)10月に創建されたそうで、遠い過去のハナシではないようだ。神社といえば、こげ茶色のイメージだったが、この神社は白色の鳥居、拝殿、本堂で、やけに明るい印象だった。誰もいない早朝を狙い、しかも日の出時間に合わせて走ってきたので、このときの気温は氷点下を下回っていた。さっそく、境内の手水舎にて身を清め、安置されている九七式中戦車 チハのところへ足を運ぶ。

安置されている九七式中戦車 チハ

目の前で見るチハ。太平洋戦争におけるサイパンの戦い(1944年)で撃破され、その後海岸に埋められたそうだ。そして30年余りが経過して掘り出されたようで、1975年(昭和50年)、この地に奉納されたことが記されている。

スペック表と修復の碑

スペック表。サイズや重量、何かと取り上げられてネタにされる装甲の数値、エンジン、装備が記されている。表の下には、帰還年度、過去二回の修復を行ったことを示す碑が置かれている。

弾痕が多数残る

車体左側に丸く描かれている部分は、弾痕の位置。崩れかけている履帯は防錆処理によって転輪に貼り付いており、乗ったりする等のストレスを与えなければ、すぐに脱落することはなさそう。履帯にぶら下がっているのは御札ではなく、「乗らないでください」という注意書き。履帯に限らず、車体が壊れかけているのをいいことに、部品を盗み出すとんでもない罰当たりがいるそうだ。

えぐられたり、貫通したり

弾痕を近くで見てみる。貫通したり、えぐられたりと実にさまざま。サイパンで戦って受けた、作り物ではない、本物の痕跡。先ほどまで会話し、生きていた乗員が、攻撃を受けた次の瞬間には亡くなったのかもしれない。戦争を知らぬ世代だけに、勝たなければ死ぬという恐怖や絶望は、全く想像できない。とても重たく、張り詰めた緊張感のようなものを抱いていた。

左右非対称の砲塔

写真やイラストでは、たいてい斜め前方からの視点になっていることが多く、「特徴的な左右非対称の砲塔」と解説されても全くイメージできなかった。現車を真正面からみて納得、確かに左右非対称だ。斜め左を向いている主砲が九七式五糎七戦車砲、正面を向いている九七式車載重機関銃が副武装となる。

右側は弾痕が少なめ

車体右側は被弾部分は少ない。履帯は殆ど失われているが、おかげでサスペンションの構造がハッキリと見える。

製造所の文字が見える

転輪の一部には「製造所」という文字が見えた。ゴムのように見えたが、ゴツゴツした感触で正体は不明。ただ、製造からの経過年数や外気に晒した保管状況でも、ある程度の形状が残っている点からしても、やはりゴムなのかもしれない。

チハの足回り

チハの足回り。写真内における四つの転輪で二つのボギー転輪を構成し、スイングアームを介してスプリングケースに接続されている。そして写真外側にある二つの転輪は独立懸架とする、計六輪の転輪となっている。アメリカ軍によれば、平地での走破性は悪くなかったというテスト結果があったそうだ。現在でも、滑らかに動く足回りで乗っている人が殆ど振られていない様子が、動画としてアップされている

タミヤの古いRCカーでは、左右のサスペンションをダンパー一本で支えるシャーシが存在していたが、戦車のプラモデルを昔から製造し、数多くの取材をしていただけに、戦車の足回りに構造のルーツがあるのかもしれない。

二つの戦車砲

主砲と副武装、そして大きなリベットで接合されている車体。印象強いディテールは後にタミヤによって取材され、プラモデルとして発売されることになった。チハを見るだけでなく、祀られている戦没者を追悼するため頭を下げ、若獅子神社を後にした。

チハは靖国神社にも奉納されていて、こちらは外観が復元されて建物の中で保存されているそうだ。ただ、それでは戦争当時の恐ろしさや生々しさといった、伝えるべきものを覆い隠している部分もあるのではないか。若獅子神社のチハのように、弾痕まみれの傷だらけで、発掘された当時の姿のまま安置されて、しかも触れることもできる。このほうが、平和についてより深く、考えさせてくれるものと思う。

午前7時帰宅開始、総走行距離は295km。