サーキットなんて

先日、首都高速湾岸線で死亡事故が発生し、その原因を作った人物が雑誌に掲載されていたらしい。

この手の事故が起きると、必ず「サーキット行け」というコメントが出る。では、サーキットとは、どういう場所なのだろうか。

実際のところ、サーキットは何も知らなければ怖い場所、魔境そのものだ。どこか近寄りがたい雰囲気があって、走行している車もナンバーがなくて積載車を伴っているような、本気の連中ばかり。公道でブイブイいわせて喜んでいる立場からすれば、サーキットを走っている人たちのオーラは恐ろしく、目を合わせたら緊張すら覚える。そんな人に向かって、首都高や峠を攻めているなんて、口にすることはできない。

車高を下げ、エアロをばっちり組み、インチアップに低音を響かせるマフラー。追加メーターや各種モニターを装着し、ギラギラと輝く運転席。他者(ギャラリー)との距離が近い公道では、それがアピール=速いイメージを抱かせるのかもしれない。ところが、サーキット走行では環境が全く異なってきて、小排気量のシンプルな車が大排気量のパーツゴテゴテの車を追いかけたり、好タイムを刻むことは珍しいことではない。公道にありがちな、大排気量車や大出力車が偉いと思っていたところに、下克上のようなシーンを目の当たりにする。自分は速いドライバーだったはずなのに、軽自動車に追い掛け回されるような姿を想像をしたりして、それがまた恐怖そのもの。追い抜き、追い越しにおけるコントロール術を習得するには多少の時間が掛かり、公道での技術は基本的には否定される。速そうな車なのに、上手に走れないという情けない姿を晒すわけにはいかず、自らの壁をますます高く作る。

走り屋(違法競争型暴走族)として、他の車に恐怖感を与えるような運転をしていながら、サーキットでは完全に立場が逆転し、恐怖感を受け続けながら走っているような感じになってしまう。そんな環境に身を置くくらいなら、あらゆる逃げ道や言い訳が多数用意され、見た目一つでも崇められる要素となる公道に逃げたほうが自分自身にも良くなってしまい、サーキットには近寄らなくなる。結局、サーキットへ行かない人はあらゆる理由を述べて決して行かない。

私はかつて首都高をぐるぐる回っていた人間で、書いてきたものは経験や当時の考えを振り返ったことによるもの。今後も公道で無茶をやった挙句、悲惨な事故に至る例は絶対に発生し、昔と違って今はSNS等で情報が一気に拡散する。そしてサーキット行け派と公道擁護派に分かれ、オチは必ず平行線だ。そのときに炙り出される事故原因や人物、その背景といったものは、興味を引くのと同時に、他山の石となりそう。